傾聴と「イエス・バット」。
朝、近所を歩くといい香り。
キンモクセイの香りです。
嬉しくなりますね。
ついこの間まで、まだ緑がかっていた我が家のハナミズキも真っ赤に色づきました。
何の実であれ、実が色付いているのを見るのが大好きな私。
喜んで眺めていたのですけど・・・
先日洗濯物を干していると聞こえてくるハサミの音・・・・・
見ると、ようやく見ごろになったハナミズキの枝を父がどんどん切り落としているではあ~りませんか!
ビックリして言葉も出ない<(`^´)>
足元に落ちた枝は、私には無残な姿としか思えません。。。。
ショックでがっくり(@_@;)
一番きれいなこの時期に切らなくても、見頃が終わってからでいいと思うのですけど・・・ね?
父は毎朝落ち葉を掃除するので、今のうちに切っておいたほうが掃除が楽だと考えたようです。
葉っぱが落ちる前に切ってしまう主義です。
青なりのミカンの枝も切り落とされておりました。
桜の木もモクレンも、アオギリもことごとく切られました。
薄紫の実をつける紫式部も根こそぎ掘られ、なくなりました。
(-"-)(-"-)(-"-)(-"-)・・・・・・・・・・・・・・・
まぁ、庭の管理は両親に任せている手前、私は何も言えないのですが。
それにしてもつらいわ・・・・・・。
造花じゃあるまいし、生きている植物は必ず葉や実を落としながら成長していくもの。
人の都合で切りまくるというのはどうなんでしょうね?
やりきれない気持ちになってしまいましてん。
ジャンダラマミー、落ち込みます。
でももうあとの祭り・・・・
せめて切られた枝を部屋に飾って実を感傷・・・いえ、観賞するわ!
高齢の両親のこと、毎日の庭掃除は大変なこと・・・怒っちゃいけないイケナイ(・・・と自分に言い聞かせて、と)
と!!
そんな私を慰めてくれるかのように
切ったものをもらっちゃったという嬉しい出来事も。
柿よ柿!!
義理の母からもらったたくさんの柿。
こんなの発見!!
三つくっついているんだぁよ。三つ子だよ!!
スーパーでは絶対ないよね?(すーぱーらしいわん!)
==============-=======
雨の降る静かな日曜日。
新聞をまとめ読みしてたら目にとまったエッセイが。
「傾聴とイエス・バットで」。
がんのピア・サポートについての記事でした。
「同じ治療体験者として、相手の悩みを受け止め、理解するため、自分の価値観は脇において傾聴し、話を肯定的に受け止めたのちに、自分の意見を述べるようにすること」
だそうな。
たとえば、Q子さんという人が、がん治療を受ける際、医師からAとBの二つの方法をだされた。Bを選んだら想定外の後遺症に見舞われた。
つらさに耐えかねて夫に話したら、ろくに話もきいてくれないまま「結果論だ」と言われ、切って捨てられたような思いがした。
これがもし、相手の心に配慮しながら応答するイエス・バット話法で聴いていたら・・・・
妻の悩みにじっくりと耳を傾け、そのつらさに共感したうえで自分の意見を述べれば、傷つけることはなかったのではないか。
人と話をするときは「イエス・バット話法」を心がけましょう。
夫婦は苦楽を共にするという上でピア(同じ立場・仲間)。
ふだんはビシバシ言いたいことを言う仲でも、相手が病を得たからにはピアとして、傾聴とイエス・バットで寄り添ってもらいたい・・・
そんな話。
=============
病気に限らず、こういう場面ってよくあることと思いません?
この記事に興味を持ったのは、
つい先日、同じような場面が我が家でもあったばかりだったからよ。
言うなれば心の一方通行みたいな?
親子とか、会社の上司とか、上下関係があって、さらに権威的なものの言い方をされると
立場的に弱いほうは言いたいことを言わないまま黙ってしまいます。
自分の話をちゃんと聞いてくれないばかりか、断定的な言い方をされ、意見を押し付けられるのは誰でもいやなこと。
嫌なばかりか、それまでの人間関係も壊れることだってある。
修復不可能になったり
恨みや憎しみに変わることだって。
ね?
カムアウトの場面でも、当事者が相手に恐れるのはこういうことではないでしょうか。
だからちゃんと聞いてくれる人を選ばないとカムアウトは難しいし
お互いが傷ついてしまうんだよね?
===========
「イエス・バット」でなく、
私は「イエス・アンド」のほうがいいなぁ、と思う。
「バット」ということば、なんか後ろ向きで否定感が強い気がして。
むしろだまって
「ギュッと抱きしめられる」
とか
「肩に手を置いて寄り添ってくれる」
とかのほうがずっと嬉しかったりしませんか。
言葉に頼るよりむしろ心で。
ときに言葉は無用と思う。
それにしても・・・・
今更ながらカムアウトの難しさを思います。
秋の夜長に・・・・ちょんちょん。
にほんブログ村
キンモクセイの香りです。
嬉しくなりますね。
ついこの間まで、まだ緑がかっていた我が家のハナミズキも真っ赤に色づきました。
何の実であれ、実が色付いているのを見るのが大好きな私。
喜んで眺めていたのですけど・・・
先日洗濯物を干していると聞こえてくるハサミの音・・・・・
見ると、ようやく見ごろになったハナミズキの枝を父がどんどん切り落としているではあ~りませんか!
ビックリして言葉も出ない<(`^´)>
足元に落ちた枝は、私には無残な姿としか思えません。。。。
ショックでがっくり(@_@;)
一番きれいなこの時期に切らなくても、見頃が終わってからでいいと思うのですけど・・・ね?
父は毎朝落ち葉を掃除するので、今のうちに切っておいたほうが掃除が楽だと考えたようです。
葉っぱが落ちる前に切ってしまう主義です。
青なりのミカンの枝も切り落とされておりました。
桜の木もモクレンも、アオギリもことごとく切られました。
薄紫の実をつける紫式部も根こそぎ掘られ、なくなりました。
(-"-)(-"-)(-"-)(-"-)・・・・・・・・・・・・・・・
まぁ、庭の管理は両親に任せている手前、私は何も言えないのですが。
それにしてもつらいわ・・・・・・。
造花じゃあるまいし、生きている植物は必ず葉や実を落としながら成長していくもの。
人の都合で切りまくるというのはどうなんでしょうね?
やりきれない気持ちになってしまいましてん。
ジャンダラマミー、落ち込みます。
でももうあとの祭り・・・・
せめて切られた枝を部屋に飾って実を感傷・・・いえ、観賞するわ!
高齢の両親のこと、毎日の庭掃除は大変なこと・・・怒っちゃいけないイケナイ(・・・と自分に言い聞かせて、と)
と!!
そんな私を慰めてくれるかのように
切ったものをもらっちゃったという嬉しい出来事も。
柿よ柿!!
義理の母からもらったたくさんの柿。
こんなの発見!!
三つくっついているんだぁよ。三つ子だよ!!
スーパーでは絶対ないよね?(すーぱーらしいわん!)
==============-=======
雨の降る静かな日曜日。
新聞をまとめ読みしてたら目にとまったエッセイが。
「傾聴とイエス・バットで」。
がんのピア・サポートについての記事でした。
「同じ治療体験者として、相手の悩みを受け止め、理解するため、自分の価値観は脇において傾聴し、話を肯定的に受け止めたのちに、自分の意見を述べるようにすること」
だそうな。
たとえば、Q子さんという人が、がん治療を受ける際、医師からAとBの二つの方法をだされた。Bを選んだら想定外の後遺症に見舞われた。
つらさに耐えかねて夫に話したら、ろくに話もきいてくれないまま「結果論だ」と言われ、切って捨てられたような思いがした。
これがもし、相手の心に配慮しながら応答するイエス・バット話法で聴いていたら・・・・
妻の悩みにじっくりと耳を傾け、そのつらさに共感したうえで自分の意見を述べれば、傷つけることはなかったのではないか。
人と話をするときは「イエス・バット話法」を心がけましょう。
夫婦は苦楽を共にするという上でピア(同じ立場・仲間)。
ふだんはビシバシ言いたいことを言う仲でも、相手が病を得たからにはピアとして、傾聴とイエス・バットで寄り添ってもらいたい・・・
そんな話。
=============
病気に限らず、こういう場面ってよくあることと思いません?
この記事に興味を持ったのは、
つい先日、同じような場面が我が家でもあったばかりだったからよ。
言うなれば心の一方通行みたいな?
親子とか、会社の上司とか、上下関係があって、さらに権威的なものの言い方をされると
立場的に弱いほうは言いたいことを言わないまま黙ってしまいます。
自分の話をちゃんと聞いてくれないばかりか、断定的な言い方をされ、意見を押し付けられるのは誰でもいやなこと。
嫌なばかりか、それまでの人間関係も壊れることだってある。
修復不可能になったり
恨みや憎しみに変わることだって。
ね?
カムアウトの場面でも、当事者が相手に恐れるのはこういうことではないでしょうか。
だからちゃんと聞いてくれる人を選ばないとカムアウトは難しいし
お互いが傷ついてしまうんだよね?
===========
「イエス・バット」でなく、
私は「イエス・アンド」のほうがいいなぁ、と思う。
「バット」ということば、なんか後ろ向きで否定感が強い気がして。
むしろだまって
「ギュッと抱きしめられる」
とか
「肩に手を置いて寄り添ってくれる」
とかのほうがずっと嬉しかったりしませんか。
言葉に頼るよりむしろ心で。
ときに言葉は無用と思う。
それにしても・・・・
今更ながらカムアウトの難しさを思います。
秋の夜長に・・・・ちょんちょん。
にほんブログ村
by jandaramommy | 2012-10-28 18:00